さて、このへんはいよいよ、「村上海賊の娘」とリンクする部分であり。
ということは、
村上武吉の全盛とリンクします。
もちろん、塩飽が能島村上家の傘下にあるとはいえ、これはこれで一水軍。
「村上海賊の娘」の登場人物たちとも、関わってきますぞ。
ざっくり。
前記事でも述べました通り、大内家の
明との貿易
で、屋台骨を支える技術と人材を提供していた能島村上家と塩飽衆。
これを抱き込めなかったのが、
陶晴賢の最大の落度でした。
1555年、「陶晴賢は逆臣である」というスタンスで、毛利勢についた能島村上家は、村上武吉の大活躍という実績を毛利に見せつつ、毛利軍を勝利に導きます。
厳島合戦です。
傘下にある塩飽衆も、これによって大いに威を張ったことでしょう。
能島村上・塩飽衆の水軍勢力をたのみにして、備前では
1561(永禄4)宇喜多氏に領地を追われた国主・
浦上宗景が、まずは本島・泊浦を目指して逃げてきた
そうです。
このあと、宇喜多の謀略に父を殺された三村氏が復讐戦したり、浦上氏が宇喜多と元さやしたり、別れたりします。備中兵乱といわれる、内戦状態となります。
児島もまた、その戦火のただ中に。
1570(元亀元)には、石山合戦が勃発しますが、毛利や雑賀衆と違い、仏教的には空海のお膝元・讃岐沖にある塩飽です。
いわゆる傍観者でした。
というか、このあとイエズス会宣教師が、好んで塩飽に布教に来てたりします。
そんなことより、せっかく村上武吉によって威を見せた水軍力、戦国の世で使わない手はありません。
とくに讃岐沿岸部の香西氏、京・大阪で
大いに奮闘する同族たちに負けてはおれぬ。
在郷香西も塩飽もこれまでは、能島村上に助力する勢力。
1571の本太合戦は、わしは細川氏の配下として三好氏とは腐れ縁だった香西が三好の意をくんで讃岐の在郷同族を動かした、という見方を支持します。
が、肝心の三好勢力児島上陸という詰めが整う前に、早々に軍を動かし、敗れて、以後は毛利が児島に本腰入れる間、動かなかったようにみえます。
(このへんは、資料ごとにまるで違う解釈をしていることが多いのですが…中には「この人、明らかに塩飽と能島村上の関係頭入れてねえな」と思うことがあるので、考察の叩き台として、こういっておきます)
1571.…てことで、戦国の南部児島での最大の大戦、本太(もとふと)合戦に至ります。
ですが、撤退。
これが1月~5月のことらしい。
本太合戦とは、児島南部沿岸攻防戦でもあり、日比四宮のように、積極的に塩飽香西連合軍の傘下に入ったところもあります。
本太城の勝ち鬨は、塩飽香西四宮、思わぬ痛打をもらった格好です。

どうせなので、児島の戦国をみておきましょう。
ややこしいですが、ついてきてくだされ。
資料から探りたいという方は
「備南地域の地方史講座1 常山・児島湾」灘崎を知る会編
あるいは「備前児島と常山城」北村章
を、何とか探してみましょう。
この北村章氏が、児島の戦国の中心城、常山城のことに多く触れてるので、一番わかりやすいと思った。
毛利としてみれば、塩飽を抱き込んでおいて、児島を狙う他を追い込んでいくつもりが…1571に一歩先んじて、塩飽衆・香西・四宮が児島に軍を出し、敵対した。どうやら三好がからんでいるらしい。
小早川隆景は、
乃美宗勝(山陽道東進の戦で奮闘中)と連携して、塩飽衆の本格的なとりこみを図りますが。
塩飽、小早川にはここでは頭を下げません。6月には乃美宗勝、塩飽よ阿波・讃岐の勢と戦え、わしは山陽道で戦う、とか言ってますが(乃美文書)、ようするに「もうなんもせんでええわ手出すなよ」と言っているようにも、とれます。
塩飽はこの時点で、香西とことを構える気など、さらさらないw
塩飽や香西はきっと、日比一港だけでは児島の動乱に備えられそうにないので(事実そうなった)、児島のどこかの港を、勢力下に置きたかったのでしょうが、それが成りそうもないので、我ら元々大友能島村上サイド、毛利の手足になる気はない、ってとこでしょう。
でもなんだかんだで中国地方最強の毛利軍、このあと児島を事実上版図に収めにかかります。
乃美宗勝自身が水軍の将ですので、自力でいこうと思えば、いけるわけです。
ところが今度は
浦上(裏に宇喜多)が引き入れた三好家の篠原長房の手勢が、児島を荒らす。
毛利で城を取り返そうとするが、篠原軍は歴戦の三好軍。しぶとい。
ここでどうやらいったん元太城は、篠原の手におちたのでしょうか。
10月には乃美宗勝、小早川隆景より、本太城攻めには塩飽の衆を味方につけろ、とか言われてますw
上司の無茶振りに、困る乃美宗勝w
三好篠原軍まで出てきて、混沌とした状態を、結局毛利は宇喜多との盟で解決しようとしました。
つまり、浦上・宇喜多の分離を図り、篠原軍の大義をなくす。
が、児島の地侍の多くは宇喜多を嫌います。
特に
常山城主・上野隆徳は、三村元親の娘婿であり、
一族の仇が宇喜多である。
宇喜多は…篠原軍が毛利の強さで児島から追い出されそうなのを見て、毛利と盟を結びます。
篠原軍が追い出されるまでが1571、毛利宇喜多の盟が1572。
これよくよく考えると、被害を出さず実利を得るのが家風となっている盟友宇喜多wに、事実上、児島の平定を丸投げされた格好です。
よくみてください。これまでも、宇喜多は児島に、自らの兵を使っていない。
宇喜多軍は、盟約後、大詰めとなった常山城攻めに、申し訳程度の軍を出したのみですw
そう、
児島には常山城はじめ、三村家勢力が多くいるのです。
毛利が、なまじついこの間まで三村を使って備中に介入してきたので、本太城と通生湊山城のように、隣り合っていたりする。
常山合戦といわれる攻防戦は常山城のみならず、木見・通生などでもおきます。
1575、
通生湊山城が町ごと火攻めにあって落城したのは、この流れ。
三村家の最後の断末魔は、児島の常山城の落城(1575、6・7)です。
このあたりになると、備中はあらかたかたがついて、いよいよ毛利本軍が児島に来たので、ひとたまりもなかった。
ゴタゴタはこのあと、
三村亡き後の児島分割でもめて、毛利vs宇喜多に。1581の八浜合戦まで続き、能勢修理頼吉は、ここでは宇喜多として、武勇伝を残してます。
さすがです。
流れで見ると、最初は三村のためと言いつつ備中に入り込み、時間をかけて結果として三村を追い込んだのは毛利・小早川隆景。
これにさらに煮ても焼いても食えない宇喜多や三好がからんで、児島はえらいことになったわけです。
何てことを。わしは、毛利好きになれん!
まとめますと、1571の時点での児島では、三好と浦上(宇喜多)、三好と香西、の関係。
この三好を通じたゆるい関係が、児島に触手をのばし、能島村上との対立が表面化した毛利を苦しめたことになる。
塩飽は、能島村上との関係から、三好と友好勢力香西の動きを好機ととらえ協力。
児島には三村氏の勢力が多く、こののち毛利が宇喜多と盟を結び、浦上と対立状態になるのを許すわけがなく、1572からは児島は毛利(とほんの少しの宇喜多)vs三村。
1575、小早川本軍が児島入りしての、事実上の三村掃討戦。三村氏の仇討ちを掲げた上野氏が常山城で滅亡。
これが児島の戦国です。
1571の本太合戦は、守城側毛利オンリーであり、能勢修理は毛利宇喜多の盟の後どころか、三村滅亡後に八浜合戦の功でやってきた城主であり、全然本太じゃヒーローじゃない説もありますが、これでは下津井の祇園神社の碑文とか、八浜は喜んでもこっちはいろいろ台無しになるので、戦場にいることにする。ロマンのために。
(このへんのわしの煩悶は、
ここでたっぷり書いた。じつはこの説に納得している…)
(これについては、いずれがっつり記事にするつもりだけど、今はその気分じゃない。角田直一が最後に目指した境地「外科医のごとき冷徹さで歴史を語る」ことは、大切なことは分かっているが、地元に根差した伝承を全否定することになる結論を、そうですかと受け止めるのは、やっぱりどっかで引っかかっている)
児島を平定した毛利…備前宇喜多からみれば、毛利軍に、塩飽讃岐阿波の脅威を丸々背負わせた。
毛利にとってこれでは児島は、軍事コスト以外の何物でもありませんが、少なくとも毛利だけででも、播磨灘までいける最低線は、確保した格好です。それ以外毛利にメリットは無いでしょう。ゆえに児島から小豆島の線は、毛利が自力で防衛しなくてはならない。石山本願寺のために。つまり、宇喜多は何もしなくていいw
宇喜多は旗印こそ児島高徳の児の字を使ってますが、激動にあえぐ児島に涼しい顔ができる冷徹さが、売りでした。
しかも、この状態も児島分割の交渉の段になると、同盟なんぞどこへやら、宇喜多は毛利と児島で小競り合い(大戦にしないのが宇喜多w)です。
毛利元就亡きあと、化かし合いでは、宇喜多の方が上でした。
結局、この化かし合いは、最終的に宇喜多が羽柴軍の説得に応じ、織田方に臣従して、直後に秀吉天下人、勝負あった、です。
小早川隆景と宇喜多は、同じ謀略家でも、白と黒というくらい、カラーが違うんですなあw
で、1571の間、村上武吉は、いい加減大友捨てて毛利につけ、という毛利勢と来島・因島村上に囲まれたりしちゃっており。
塩飽衆、せっせと能島に兵糧を送ったりしてたようで。
7月には、沼田警固衆・来島・因島水軍に追われ、塩飽船が襲われる事態になっています。
三好家の意を受けた兵糧であることがばれてるので、ここで児玉就英や村上吉継、村上吉充登場ですな。
あらためて1571の一年をまとめますと
①毛利は山陽道東進しつつも、のどにささった大友のとげ、能島村上をなんとかしたい
②塩飽は、大友側の能島村上を支援しつつ、三好にも通じる香西とともに、児島に手を出してみる
③この動きに毛利軍小早川隆景、塩飽取り込み図るも、うまくいかない
④香西塩飽、児島撤退。児島に宇喜多の引き入れた三好家篠原軍が来襲。毛利は宇喜多の介入を無くすため、篠原軍を児島から追い出しつつ、宇喜多との停戦盟約の道を探る
です。
先にあげた児島の戦国を見る通り、このあとも状況は、目まぐるしく変化します。
1575までに、塩飽には
ルイス・フロイス
アルメイダ
あたりが来てます。
ルイス・フロイスは信長と会い、このあと1576、今度は布教のために塩飽を訪れています。
このあとカブラル、島津家久、西園寺宣久なんかも、立て続けに塩飽に寄港してたりします。
いやー、豪華キャストだよね、塩飽の戦国史。
このあと一、二年は「村上海賊の娘」読んだ方が早いし面白いので、そっちで。
次は、石山合戦終結にいたるまでの、紆余曲折です。
p.s.
はい、やっぱりボロ出しちゃいました。文中「大内」を「大友」に変えてますw
4・26訂正、っと。
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