江戸時代~昭和まで、下津井の金融経済の中心であり、事実上、下津井の中心地といえる活躍をしてきた集落なのですが。
その名が歴史の表舞台に出るのは、なぜか南北朝「太平記」の世界という、どういうことかよくわからないことになっているのが、ディープ下津井・吹上なのです!
(と、田之浦もんが言うてみる)

吹上のお寺は、観音寺。
十一面観音を本尊とするお寺です。
☆「太平記」巻四
…妙法院二品親王ヲモ、…讃岐へ流シ奉ル。…備前国迄ハ陸地ヲ経テ児嶋ノ吹上ヨリ船二召テ讃岐ノ詫間二着セ給フ
1331年、鎌倉幕府討幕が白日の元にさらされると、後醍醐天皇は北条氏に捕らえられ、隠岐の島に流されます。
後醍醐天皇皇子・宗良(むねよし)親王は、現在の香川県詫間に。
「太平記」内の妙法院二品親王とは、宗良親王のことです。
詫間に流刑護送の際、吹上から船に乗った、ということですな。
☆「太平記」巻十六
…舟路ノ勢、巳二備前ノ吹上二着ケバ、歩路ノ勢ハ備中ノ草壁ノ庄二ゾ着二ケル
1336、いろいろあって(ここで太平記は語りきれません…)、九州から反攻を開始した足利軍。岡山に入る頃には、海路を足利尊氏、陸路を弟・直義が、二手に分かれて東上。この際、吹上に寄港、布陣した、といいます。
観音寺は、この二つの太平記エピソードに関わっているのではないか、といわれています。
巻十六については、口碑があります。

湾岸を走る道路の山側の端が、江戸時代の海岸線であり、ここ吹上観音寺近辺に至っては、南北朝でも、海岸線はそのころと変わらない、と思われます。
当時、漁村に過ぎなかった吹上で、尊氏が休める場所は、ここくらい。ここなら、景色もいいですし、いざというとき、すぐ船に乗れますし。
民家の屋根越しに見る瀬戸内海は、臨場感たっぷりの景色です。

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ガイドの考察
太平記の巻四で登場した宗良親王は、巻十六の尊氏東上の前に、詫間から、京に帰る事になります。いったん本州上陸のあと、京を目指す船便を待ったのは、またも吹上だった、といいます。
吹上への途中、鴻八幡宮(児島下の町)に立ち寄った親王は、戦勝を祈願。
無事京に帰った後、獅子・狛犬を奉納した、といいます。
1336年1月に、祈願したそうで。尊氏が寄港するのは、この後、5月のことだったそうです。
撮影した日が曇天ですいません。景色の美しさは、ぜひ現地で。
尊氏も眺めた絶景は、今も健在です。
なぜ、海路なのか。
ここんとこを押さえておかないと、足利尊氏が「海路で」東上した意義を、履き違えます。
後醍醐天皇が頼みとしたのは、鎌倉時代、不遇を受けた武装勢力でした。
来島水軍など、瀬戸内の多くの水軍勢力が、この時、後醍醐天皇の側についた、といいます。
足利尊氏とは、逆に言えば、建武の中興で不遇を受けた武士たちの支持を受けた存在、といえないでしょうか。
そんな尊氏が、九州の武士らと協力体制を築く中、水軍勢力の抱きこみにも、無頓着ではなかったと思います。
その尊氏が瀬戸内を海路で行くことは、水軍全てに存在をアピールする、集大成の必要があったからではないでしょうか。
古来、西日本を制するにあたって、瀬戸内航路を無視した支配者など、いなかったのですから。
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