江戸時代中期から、住民がひたすらディアスポラし続けた
ことにあります。
考えようによっては、咸臨丸で日本の誰よりもアメリカの空気を体で感じたり、もっと昔には朝鮮半島に秀吉配下を次々送ったり。
もっと昔には倭寇として、東アジアの海を縦横無尽に駆け巡った根っからの国際人ですから、子孫が島から出ていくのも当然、とも言えます。
で、そのきっかけはどこか、というと、どうも秀吉の時代にあるみたい。
戦国時代、織田信長から触掛(ふれがかり)の特権までもらうことになるこの水軍の地には、織田家を訪ねた南蛮の宣教師が、何度も布教に訪れています。
島のかなりの数の人が、キリスト教徒だった可能性がある。
でもそのあとすぐ、秀吉によって、キリスト教は禁教となった。
今日、本島の地図を開けば、集落に異常に「寺が多い」ことがわかる。
家屋の密集度なら、瀬戸内の島にも負けない下津井が、四ヵ浦に大体一つづつの寺。これと比べると、おいどうしたこれ大丈夫か、というレベル。
これについて香川の人が仮説を立ててる。
①集団封建領主・塩飽人名は650「株」
「株」ということは、子孫が後々増えることを前提にしている。
かなり早計すぎたのだろうが、船方衆の「何株か」ごとに、寺を持とうとしたのではないか。
②キリスト教禁止令の監視体制
水軍は機動力の塊であり、この集団にキリスト教徒がいることは、許されない。
どこにどう飛び火して、布教が広がるか、予想もつかない。
徳川時代には、通常よりも寺を多くして、監視体制を強化、という狙いもあったのかもしれない。
これを息苦しく感じた人が出たのではないか。
秀吉→家康と続いたキリスト教弾圧が形になったとき。
これがディアスポラの引き金になったのではないか。
②を調べるには、本島にずらりとあった寺の建立年代とか、調べないといけない。
廃寺も多い現状で、これを調べるには、苦労が伴うだろうなあ。
何せ、大元が「最初に人が居なくなった要因を調べる」という、居なくなった人が日記でも書いてないとわからないレベルのもの。
それに、「塩飽史年表」(塩飽史談会編)をざっとみるかぎり、かなり古い歴史の寺もあるので、町なかにぽつねんとある寺が、じつは檀家なんていないお寺で、それでも信仰心厚い塩飽の人らの厚意で、寺何とか回ってました状態だったのかもしれない。
こうなると、キリスト教弾圧とはかなり毛色の違う歴史になるぞ。
もう一つ、角田直一先生の著作から、わしは「島の食糧問題」を指摘したい。
戦国から、江戸時代にかけての「大型船の熟練した船乗り」ってのは、高給が取れる存在です。
このブログで、幾度となく指摘した、北前船船員がその例になるでしょう。
人間、行く先々で美味いもの食って、故郷に帰れば麦飯か芋、って暮らしでは、そりゃ転居も考えてしまう。
汚い言葉ですが、「島の芋食い」という言葉がある。田が無く、畑作でできる穀物食に依存した島の暮らしを揶揄した言葉だ。
水の事情も、決して良いとは言えない。
ここで育った人たちが、行く先々で美味いもの食ってしまう。
これはもう、禁断の実を食べ、楽園を追われたアダムとイブに近いものがあるんじゃないか。
わしは、そう思ってしまった。
で、もう一つ思いついた。
塩飽衆は、優秀な宮大工でもある。
つまり、「自分でお寺建てられる」わけだ。
もうこうなると、後世に自分らの腕を残すべく、島内お寺建立大会状態になってしまったのではないか!
これは、現実味があるw
江戸時代前後って、たぶん上方やら江戸やら、ほぼ浮浪者同然の托鉢僧がごろごろいるイメージ(偏見かも)ですし。
ああもう、建てちゃえ建てちゃえ、近所の一族に負けちゃおれねえ。
大丈夫、あとで御用で都会の港に入ったとき、そこらへんうろついてる坊さん引っ張ってくるから。あ、どうせなら島の〇〇寺の住職に誰かいないか聞いてみてもいいな。
何なら、一族の誰か、このさい出家してもいいぞwみたいなw
うわー、ありえそうw
でもこうなると、寺の多さとディアスポラ、関係ないことになるぞ。
バカなブレストしちゃいましたが。
塩飽のディアスポラの謎。
塩飽のお寺の数の謎。
このへんは、あまりしっかりした説が打ち立てられていない、というのが、現状らしい。
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