♪白石瀬戸からよ お船が見えるよ
あれは肥後様 九曜の星よ
トコハイトノエ ナノエ ソレソレ
民謡「下津井節」に出てくる白石瀬戸は、参勤交代の肥後細川家の御座船が水島灘に姿を現す様を唄っておりますが。
これにバタバタするのは、下津井湊では決して多くない武士だけ。
その中でも「下津井在番所」だけです。
白石瀬戸を通る船で、下津井商人が期待するのはただ一つ。
はるか蝦夷松前からニシン粕(当時の最高級肥料)を積み、途中の湊でニシン粕を降ろしたスペースに、その地方の特産品を乗せ。
水島灘に来る頃には、さながら「北海道日本海特産品フェア」状態となり、「宝船」と称された状態の、北前船であります。
これを、下津井商人が雇った快速船「先舟」が、白石瀬戸で待ち構える。
その時期は、秋。
今日の白石島は夏が売りですが、江戸時代は、秋こそ白石瀬戸が最も活気づく時期であったことでしょう。
さて、先舟は、北前船の船団の中から、なじみの船長がいる船に近づき、前交渉をしていきます。
これは、申し合わせ誓約「長浜記」によって、船長が値を吊り上げるため、または店が安く買い叩くため、船長を多数リストアップして交渉しないように、前年契約した船長は、今年も同じ店と交渉するよう、店も前年契約の船長の荷を最優先するよう、決められています。
先舟は、取引に足る量を交渉で確保すると、全速力で水島灘を突っ切り、店に報告。
店側は、水島灘を北前船が渡る前に、準備しなくてはなりません。
ここで活躍するのが、荻野屋。
幕末にこそ廻船業に手を出しましたが、池田家・丸亀藩京極家融通方(藩にお金貸す人)、児島郡大庄屋格も務めた、江戸中期から下津井第一の商家の真価は、このとき発揮されます。
倉庫と短期融資の貸付を、「セット」で、スピーディーに、廻船問屋に提供するわけです。
これによって、廻船問屋は、実務に集中することができる。
秋には、近隣から季節労働の人夫たちが大勢詰めており、港に着くやいなや、「にしん蔵」への荷の運搬を、怒涛の勢いでやっていきます。
で。
北前船側もまた、白石瀬戸での先舟との交渉を終えると、ちょっと忙しくなります。
主荷である「ニシン粕(かす)」は、大きな俵に入っています。
このうちの「計量分の俵何俵か」に、塩水をぶっかけ始めるのです。
これは、当時としては細かい規則に沿って行われていた、北前船船長と廻船問屋の取引の
あそび
の部分。
ニシン粕は、発酵肥料です。
水分をある程度は含ませておかなければいけない商品です。
これが、運搬中、乾燥して、軽くなる。または、発酵が止まるほどに、乾燥する。
これを防止する「名目」ですが。
実際は、重量取引のニシン粕の
一俵あたりの重量
を、少しでも重くしようとする、意図でもありますw
廻船問屋側が最も忙しい入港準備の時間、店の眼が届かない水島灘からの接近中に、これをやるわけですw
ですが、廻船問屋もさるもので。
塩水かけすぎて、俵からダラダラ水が出てくるようなニシン粕は、計量用の大天秤にかけませんw
他の湊と違うのは、ここには遊女芸者の類がいて、船長船員側、ここで一晩遊ぶ気満々だってことw
だからこそ、いつもより多めにぶっかけてしまいます。
よって下津井港の接岸部には、早々におねーちゃんとこに遊びに行った船長と船員を尻目に、塩水かけすぎたニシン粕の俵をじっと睨む、北前船側と廻船問屋側の「計量立会人」が、こんな会話をしているわけです。
「もうええんじゃないかな」
「まだじゃ、ほれ、塩水たれとるがな」
でもこれ、あんまりやりすぎると、最後倉庫にニシン粕の俵を運ぶ人夫から、ブーイングされるので、下津井では、どちらかというと、北前船側有利の計量になりやすかったそうですw
忙しい収穫の時期をぬって、人夫たちは来てますんで。
廻船問屋はそのために、船長が遊びに行った先のおねーちゃんたちに心づけを渡して、何とか安くしてもらえるように、たっぷりサービスさせたそうですよw
トコハイトノエ ナノエ ソレソレw
来襲は、また休載とさせていただきます。
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